アーサーさん 核と命めぐる祝島の旅

アーサー・ビナードさんが8月19~20日に、祝島に初来島された時の映像をまとめました。2時間22分と長編ですが、祝島の魅力や上関原発のこれまでと現状、アーサーさんの紡ぐ言葉の数々がつまった盛り沢山の内容となっています。ぜひご覧ください。

 

アーサーさんは詩人として、翻訳家として、マルチに活躍されています。核や原発についても分かりやすく、言葉巧みに話をしてくださいます。僕は初めて会った時からアーサーさんのファンになり、これまで「スナメリチャンネル」でも何度か発信させて頂きました。

 

そして、広島や岡山から一緒に来られた方たちの案内役をしていたのは岡田和樹くんと渡邉千晶さんです。2009年から始まった中国電力による上関原発建設のための海の埋め立て工事に対して、カヤックに乗りながら、祝島の人たちと抗議をしてきた仲間です。

 

祝島でまず向かったのは平さんの棚田です。集落から離れて山道を約一時間歩くと、山の中に突如として現れるお城かと思えるほど巨大な棚田。「ローマの遺跡か」とアーサーさんも驚いていました。平萬次(まんじ)さんのおじいさんの亀次郎さんが「子や孫のために」とつくり始め、萬次さんまでの3代で築き上げた家族の棚田です。重機を使わず人力でつくり上げたというからなお驚きです。80歳を超えた萬次さんは今も現役で、3枚あるうちの一番上の田んぼでお米をつくっています。青い海を背景に、黄金色の稲穂がよく映えていました。「戦中戦後の食糧難の時代を、あまり食糧だけには不自由をみんと、私の子どもも孫たちもここのお米を食べて成長しているからありがたいと思いますよ。」と萬次さん。

 

「原野に還るのも時間の問題」とするも、おじいさんが「俺と息子(萬次さんの父)で棚田をつくって、それをお前(萬次さん)が耕作して米を収穫して、次の代には何もなくなる」と言っていたから悔いはないと言う。アーサーさんが「この田んぼは百年も千年もやらなきゃいけないよと言うと孫やひ孫は嫌になるから、それが戦略だったのかも」と返すと萬次さんは笑っていました。

 

萬次さんが最後に送ってくれた言葉です。「これからの人生でいろんな試練に会った時に、この棚田を思い出してがんばってくださいよ」

 

子や孫を想うおじいさんが生きていたら、数十年の便利さのために何万年にも渡って不の遺産を残す原発をどう思うのだろう。原発の目的が電気だとしても、核兵器のためだとしても。

おじいさんが詠んだ詩を萬次さんが刻んだ石碑を見て帰りました。

「今日もまた つもりし雪を かきわけて 子孫のために ほるぞうれしき」

 

その後、喫茶「わた屋」で休憩し(僕はビワシェイクを頂きました)、18時半から、毎週月曜恒例の原発反対デモに参加しました。何回目か分かりませんが、1150~1200回の間です。島外からの参加が多く、いつにも増して賑やかなデモでした。

 

その後の集会では、アーサーさんがお話されました。言葉を職業とするアーサーさんならではの視点で、言葉がどのように操られているか、様々な切り口からのお話で、とても面白く勉強になりました。アーサーさんが表現した福島原発の「汚染水地獄」。それらを忘却の彼方にやるための「東京オリンピック」。汚染水が、海に垂れ流されているだけでなく、地下水にも接触しているとしたら……関東も安全と言えないかも知れません。アーサーさんと平さんの話を聞いて、言葉や時代に翻弄されることなく、信念を持って生きていきたいと強く思いました。

 

夜は、橋本典子さんに作って頂いたご馳走に舌鼓を打ちながら交流しました。2009年から2011年(福島原発事故)までの1年半の間、中国電力の工事船が来ては船で止めていた橋本久男さん、清水敏保さん、木村力さん、田ノ浦(原発建設計画地)で生活していた金田芳人さんが来てくれました。これまでの抗議行動のこと、橋本さんと金田さんが敦賀原発に働きに行った時のこと、話は尽きず遅くまで語り合いました。

 

翌日、アーサーさんは朝早くから海に泳ぎに行っていました。その後、祝島に別れを告げ、清水丸(清水さんの船)に乗せてもらい田ノ浦へ。風は気持ちが良く、海は陽の光を受けてキラキラと輝いていました。田ノ浦は祝島の集落の対岸4km弱に位置しています。山からの水が湧き出るところで、絶滅危惧種が数多く生息する生物多様性の宝庫です。人間などの脊椎動物の祖先と言われるナメクジウオもその一種です。中国電力の工事によって西日本最大級の縄文遺跡も発見され(現在は埋め戻されていますが)、人を含めた生物が古代から命をつないできたことが窺えます。

 

2009年から、中国電力は海の埋め立て工事を強行し、抗議する人たちを訴えてきました。工事区域に入り抗議すると一日につき500万円の支払いを命じ(後に最高裁で決定)、特に先頭で抗議していた清水さん、橋本さん、カヤックの原さん、岡田くんの4人に4800万円の損害賠償で訴えました(現在も裁判が続いています)。福島原発の事故まで続いた緊迫した状況を、共に田ノ浦で生活し、後に祝島に移住した岡本直也くん(金ちゃん)も説明してくれました。

 

田ノ浦をぐるりと回った後、四代(しだい)まで送ってもらい、そこで清水さんと金ちゃんと別れました。そこから車で今度は陸路で田ノ浦へ向かいました。僕も訪れるのは久しぶりでした。車で行けるところまで行き、そこから歩いて5分程のところに祝島の人たちが建てたログハウス(団結小屋)があります。さらに山道を15分程下ると浜に着きます。そこには縄文人たちも見ていたであろう美しい風景が広がっています。

 

しばらく経って、祝島から清水さんたちの船がやってくるのが見えました。また他の人たちに田ノ浦を案内していたようです。アーサーさんが掛け声をかけ、「きれいな海をまもろー!!」と皆で叫びました。

 

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祝島と福島と海に生きる人たちを追ったドキュメンタリー「祝福(いのり)の海」

 

 

祝福(いのり)の海」

 

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